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「学園記録」カテゴリーアーカイブ
視線
部屋の窓に朝が到着する。蒸すような熱い日差し。そして柔らかく優しい声。父親のたおやかな声だ。
「秋兎、おはよう。朝食ができたからおいで」
俺はまだ寝ぼけているふりをして、薄いタオルケットに顔を押しつける。その隙間から父の顔を覗けば、甘く目尻を下げている表情が見えた。
父はベッドの側に寄り細い手を伸ばし、高校生にもなった俺の頭を撫でると「先に降りているよ」と言い残し部屋を出て行った。
俺は父が完全に階段を降りきったのを確認すると、タオルケットから顔を出す。
自分の部屋に差し込む無遠慮な夏の日差しが、天使のはしごのように見える。清らかな光に混ざる蝉の汚い声がどこかアンバランスで、心がかきむしられる気がした。あぁ、起きたくない。気怠い。けど、起きなければならない。
そんなことを考えていると一階のキッチンから香ばしい香りが漂ってくる。同時に、父が朝食を用意しているであろう音も。それらを無下にするのも心が痛い。俺はしかたなく身体をベッドから起こす。
毎朝毎朝その繰り返し。あーあ。いやだ。なんだか生きていることが嫌だ。父と顔を合わせるのも。すごく嫌だ。
簡単に着替えを済ませ、部屋を出て一階に降りた。我が家には色が少ない。どこもかしこも白い物で溢れている。無駄な物がなく、殺風景ともとれるし整理整頓されているともとれる、変な空間だ。
そんなシンプルすぎる部屋は甘い朝食の香りで満たされている。父は俺をみるともう一度笑って「おはよう」と言った。俺も力なく「おはよう」と答える。
父は俺にとても優しい。俺が悪いことしないというのもあるかもしれないが、俺はほとんど今まで一度も、父に怒られたことがない。友達と出かけるときは「こづかいあるのか?」と聞いてくれるし、外が大雨の時は学校から休校の知らせが届くより先に「今日は休みにすると良いよ」と言ってくれる。誕生日だって祝ってくれるし、俺の小さい頃の話を昨日のようにして懐かしむし、体調を崩せば慌てて薬やポカリスエットを持ってくるし、送り迎えが必要とあればできる限りしてくれる。
けど俺は、父が苦手だ。思春期特有のアレだとか、ソレだとかそういうことではない。そういう簡単に切り捨てられるものではない。
それを説明するには少し遡って説明しないといけない。いや、ソレより先に俺の生い立ち、ひいては家族の成り立ちみたいなものから言わないと駄目だろう。
俺の両親は大学で出会ってお付き合いをし、結婚を経て俺を産んだ。父の仕事である葬式屋に二人とも勤め、ラブラブのバカップルのまま子育てをした。葬式屋という薄暗いイメージとは裏腹に、それなりに幸せな家庭だったと言えるだろう。
しかし、転機はある日突然訪れる。
母に癌が見つかったのだ。今から四年前、俺が中二の時の話だ。医者が父を呼び出し、神妙な顔で母の命の炎はあと一年だと告げた。母はその言葉通り、ゆっくりゆっくりと衰弱していった。蝋燭が炎で溶けるように、ゆっくりゆっくりとその身を細くしていった。
父は最初こそ、かいがいしく看病をし、なんでも持って行き、仕事もほっぽり出して母の元に通っていたのだが、そのうち机に向かって独り言を言い続け、夜中に虚空をジッと見つめ、ぼーっとすることが多くなった。母の弱りゆく姿を見続けて、父もだんだんとおかしくなっていったのだ。
そしてとうとう母が死んだその日、父は美しく発狂した。息をしない母の前で泣き崩れ、医者に怒鳴りかかり、近くの物を投げ、壊し、壊し、叫び、泣いて、狂った。
俺にはどうしようもなかった。父がおかしくなっていくのも、母が死んでいくのもどうしようもなかった。友達にも言えないし、親戚に辛いとか、家族にしっかりしてとかそういうことを叫ぶ気力さえ無い。
ただ俺は母さんが死に際に言った「お父さんの言うこと、ちゃんと聞くのよ」の言葉が頭から消えなかった。その言葉が耳に残って眠れない日々が続いた。
母は子供の俺から見ても美しい人だったと思う。
キッチンに立って野菜を切っている母の後ろ姿を思い出す。真っ白い部屋に母だけが綺麗に浮かび上がっていて、生を感じられた。普段、鯨幕の端から出てくる母より台所の母の方が好きだった。そんな美しい母の願いなのだ。父を困らせないように生きよう。それが母にできなかった俺なりの親孝行だ。
父は母が亡くなって毎晩毎晩うわごとのように母親の名前を「春香、はるか、」と囁いては物を投げつけたり、叫んでいる。俺のことなんかすっかり忘れてしまったのであろうその姿にふと酷く寂しくなり、父が暴れ狂い気を失っている側で、嗚咽を漏らした。暗闇の中で、母を恋しく思い、いかに大事な存在だったのかを知り、辛くてたまらなくなった。そんな日々が続いた。
母の火葬も済んだある日の朝。父の夜中の発狂が終わり、朝方になってようやく眠れた俺は7時40分頃に目が覚めた。
父の発狂はだいたい夜中だったから朝には体力が無くなりぐったりとして眠っていることが多かった。俺はその隙を見計らって食事をとっていた。その日は寒い朝だったからインスタントのカップスープとパンを取り出し、少しでも温まろうと思ったのだ。
物が散乱するリビングの上を注意深く歩く。ガラスの食器の破片を踏まないよう気を付けながら、キッチンに立った。コップにコーンスープの粉を入れ、お湯を注ぎ、スプーンを差し込み混ぜて溶かす。パンを焼くことも億劫で、お皿にロールパンをひとつ取り出す。また気を付けながら歩き、リビングのテーブルにたどり着く。音をたてないように椅子に座る。
ふと目線をあげると、廊下の暗闇に父が立っていた。
やせこけた身体にくぼんだ頬はまるで亡霊のようで、俺は危うく悲鳴をあげそうになった。父は黙ったままふらふらと歩いて俺の目の前の椅子に座った。目線は酷く虚ろだ。なんと声をかけていいかもわからず、ただ黙りこくる。
ヒヤリとした静寂に、心が押しつぶされそうだ。その時「ごめんな」。父はそう囁いた。
それは俺に言ったの?それともお母さんに言ったの?そう聞くこともできずに俺はパンとスープに口をつけた。どうすればいいのか分からないし、かける言葉も見当たらなかったからだ。白いスプーンでとろみのある液体を口に運ぶと、父が一瞬こちらを見た。ドキリとする。怖くて父に目線を向けられない。俺は黙ってそのままパンを食べた。
その瞬間、父の目が、虚ろだったはずの目がぎらりと光ったした気がした。
父の視線が、俺の口元を捉えているのがわかる。そのまま、ゆっくりとを眺めまぶた、まつげを見て、鼻筋、唇の皺、そのまま口内を見ているのがわかった。ねっとりと絡みつくその速度と目線の熱が恐ろしい。怖くて、顔を上げられない。だけど、父が自分の顔を瞬き一つせずに凝視していることだけは感じ取れた。
もしかしたら父はお腹が空いていて、俺が食べているパンを食べたいのではないだろうか。そんなはずないと思いつつも、そんな絵空事を考えて気を紛らわす。実の父だ。怖がってはいけない。いつもは優しくて穏やかで落ち着いていて、俺の大好きなお父さんだ。怖がるな。大丈夫だ。お父さんは少し気が滅入っているだけだ。けど今も父の目線が俺を捉えて放さない。
ねっとりとした視線が首筋に落ち、そしてまた租借を繰り返す俺の唇を見てくる。父は少し、気が。気が動転しているんだ。俺が信じなくて、誰が父を信じるんだ。俺の額や頬や耳を眺めたと思えばまた、視線が一点に集中した。俺の口の中の、喉の中の動きを見ている。 熱を帯びたぎらついた目で、俺を見ている。
俺は勇気を振り絞って顔を上げた。父は一言。
「春香」
と零し、見たことのない顔でニタリと笑った。
父には俺が、かつて愛した恋人に見えていたのだ。
それからというもの、父は驚くほど大人しくなった。母の名前を呼んだ後、父はもう一度部屋に戻り、眠って起きて、壊した物を自分で片付け始め、家事をするようになった。
俺のことを母の名前で呼んだのはその一回きりで、その後は一度も母の名前で俺を呼びはしなかった。けれども、その、気づきたくなかった事だし確証も持てないのだが、父はどうやら俺の下着を使って自慰をしているらしい。それから、多分、だけれども、その、俺の食事しているシーンを……ネタにしているような気がして……。
そうじゃないとつじつまが合わない。俺のことを母の名前で呼んだ日以来、全く料理をしなかった父が料理をしだすようになり、必ず俺と食事を取るようになったことの理由に……。
そうして、俺はそのことを指摘できないまま父と歪な関係を保っている。
ずいぶんと前置きが長くなってしまった。とにかくまぁそんな生活が続き、高校二年生の夏休みまっただ中に俺はいる。今日も父の目線が怖いと思いながらベッドから出た、というわけだ。
父はすっかり朝食を作り上げてしまっており、サラダとか、パンとか、昨日の残りのスープが目の前に運ばれる。俺も自分の分を運び、大人しく席に座った。目の前に父が座り、テレビを付けた。
父にはほおづえをつく癖がある。左腕の肘を机に立て、手のひらを自分の頬に添える。その姿勢で、俺が食事を取るのをじっと見るのだ。たまに「美味しい?」とかテレビのニュースの話とかもするけど、それ以外はずっと俺のことを見ている。恐ろしいことに、だんだんと料理の具材が大きくなっているのだ。俺の咀嚼に時間がかかるようにだろう。今日のサラダも少し、具が大きい。
……レタスを咀嚼しながらちらりと父を見る。父は笑顔でこちらを見ている。俺は何も言えずにテレビに目線を向けた。父の喉が動いているのが見える。生唾を飲み込んだのだろうか……。
夏休みの朝は辛い。このまま早々と学校に行けられれば逃げれたのに。夏期講習もないこの時期はゆっくりと朝食を食べることしか許されてないから。
あぁ、苦痛だ。怖い。けどこれさえ終われば後は優しい父が戻ってくるんだ。
その瞬間、家のチャイムが鳴った。父は一瞬真顔になり、ややあって席を立つ。玄関先で誰かと少し話をすると父が戻ってきた。
「秋兎、お友達が来てるよ」
「え?」
慌てて玄関に出ると同級生の不破がいた。
「よぉ」
不破は無愛想な態度で尋ねてくる。
「時間あるか?」
「ないって言っても連れ出すんでしょ」
「まぁな」
ちらりと父の顔を見た。笑顔を崩さないで黙ってこっちを見ている。陶器のようなつるりとした顔。物言いたげな顔。
「五分だけ待ってて」
と言い残し俺は急いで二階にあがる。身支度を済ませて、家を出た。後ろから「気をつけてね」と声がした気がした。
真夏の商店街は活気に満ちあふれ・・・という訳でもなく。うだるような暑さのせいでなんだか静かだった。誰も彼もこんな時分に外に出たくないのだろう。
俺は不破と並んで遠くに見える陽炎に向かって歩く。
言いそびれたが不破トオルは俺の同級生で、両親は町の写真屋さんを営んでいる。本人は学校の写真部に所属し、極総生徒の写真を他校や、学内の生徒、果ては先生にまで売り捌いているとかなんとか。隠し撮り写真を売って小銭を稼ぐその姿は、さながら海外のパパラッチだ。さらには新聞部と共同し、撮った写真を使ったゴシップ記事を作る。そして俺が委員会で管理している掲示板に好き勝手に張ったりするのだ。その度に何度か注意をするのだが、不破はいっこうに聞く気が無い。その度に軽い言い合いをしたり、しなかったり……まぁそれ以外では普通に仲良くやっているような、そうじゃないような……なんとも言いがたい関係だ。
そんな関係の同級生に尋ねる。
「それで?俺に何のよう?」
不破は少し考えて言った。
「実は、お前の写真が二次選考に進んだ」
「…え?二次選考?どういう意味?」
「……ちょっと前に…お前を撮影したやつを、上手く撮れたから××って写真コンクールに試しに送ったんだよ。優勝したら賞金と、東京での展示会の権利が手に入るやつだ。そしたら一次選考通ってよ……」
「馬鹿なの?」
「いや俺も正直、そこまでいくとは思わなかったんだって」
「いや、上手くいくとかいかないとかじゃなくってさ。俺は写真の許可してないし!いつとったの?不破が勝手に撮った写真を勝手に投稿して勝手に一次選考通過したよっていう事後報告ってこと?もう俺帰るね」
「あ~~ちげぇって!話はそれだけじゃねぇんだ!」
「何」
「このコンクール、ちょっと特殊でよ。二次選考も被写体が同じ人じゃないと駄目らしいんだわ」
「で?俺をもう一回撮らせて欲しいってこと?」
「そういうことだ」
「帰るね」
「ちょぉっと待った!」
「なに!」
「わかった、お前にバイト代を払おう。次の二次選考に通ったら、なんと金が入るんだ!結構な額だ。じゃなきゃ俺はお前にわざわざ声かけたりしないだろ?良い額だ。それを少しやる!俺が金を出すなんてすげーことだぜ?な?いいだろ?!」
やっぱりお金か。そう思いつつ、まぁ本当に貰えるなら悪い話じゃない。
「いくら?」
「通ったら言うよ」
それくれない奴じゃん。そう内心思いつつも、不破の必死な説得に俺は根負けした。どっちにしろ、家に帰るのも嫌だし。少しぐらいなら良いだろう。お金が貰えなくても、暇を潰すことはできそうだ。
「で?どこで撮るの」
「うーん・・・そうだな」
結局、不破が指定したのは学校の裏山だった。 薄暗い森のような場所ではあるが、真っ昼間だと木々の隙間から日差しが差し込んで美しい。歩きながら不破にここの光りだどうだとかF値がどうだとかそういう話をされる。よく見たら今日の不破が持っているカメラもいつものカメラではない。ちゃんとした、俺にはわからないけど、しっかりとした?カメラだ。おまけにがっしりとしたリュックも背負っており、中にはレンズが入ってるようだ。なんだかんだ言いつつ彼は今までの盗撮写真で手に入れた小銭を、自分のカメラ代にしているようだ。俺が彼を注意しつつ憎みきれないのはそういうところにある。本人は、写真を撮るのが好きだという自覚はないようだが、本当はカメラマンの血が濃く流れているのだろう。
「だいたい、また前みたいに隠し撮りすれば良かったんじゃないの?
「あ?んだよ。うっせーな。俺が撮るって言ってんだから撮るんだよ」
「ふーん」
「……パパラッチ写真じゃ何度やっても良い写真とれねぇかもしれねぇだろ。一発で撮った方が良いに決まってんだよ。」
不破はめんどくさそうに答える。
「……俺も写真家の端くれだから、パパラッチみたいなことして入賞は嫌だったんだよ」
「でも結局金じゃん」
「そりゃそうだろ!世の中金なんだよ!猿でもわかる!だってのに、俺の家はあんな利益度外視みたいな撮影で……意味分かんねーよ」
そんな話をしながら、山の中腹まで来た。不破は足を止め「この辺で撮るか」と呟くと、カメラにレンズを付け始める。あの辺に立ってくれと指示を指さされた方向へ行くと、突然、草むらから少年が現れた。
「うわあ!」
俺が大声を出して驚くと、少年も驚いた顔をして謝り始める。
「あ、え、っと、ご、ごめんなさい、驚かせて……」
暗がりから出てきた少年。その肌の白さにゾッとした。まるで呪怨に出てきた男の子のようだ。心臓が破裂するかと思った。
「どうした!大丈夫か!」
俺が大声を出したことで不破が駆け寄ってくる。
「うお、なんだこのチビ」
不破が来たことによって俺は冷静さを取り戻した。あんなに大声出すこともなかったなと思い、ちょっと恥ずかしい。よく見ると少年はかわいい顔をしている。俺は恥ずかしさを隠すようにしゃがんで、少年の目線に自分の視線を併せて尋ねた。
「君、一人?」
「んと、えっと……」
「お父さんかお母さんは?」
「……えっと……」
「何してたの?」
「……」
何度か話しかけても要領を得ない。それどころか黙り込んでしまった。どうしたものだろうかと考えていると不破がこんなことを言い出した。
「なぁ、チビ、ちょっと今から遊ばねぇ?」
急な物言いに俺の方が驚く。
「不破、何言って」
しかし少年は打って変わって目をきらきらさせ始めた。
「あ、遊んでくれるの?」
「おう。もちろん。お兄ちゃん達と、写真ごっこしよう」
「なにそれ!はじめて!面白い?」
「めちゃくちゃおもれーぞ。終わったらアイスも食える」
「ほんとぉ!やるやる!」
不破はすっかり少年の心を掴んでいた。そんなに勝手に話を進めるなよと言いかけ、口をつぐむ。そうか彼の家は写真館だから子供を相手にすることも多い。彼にとってこの程度造作もないことだ。
不破は少年の手を引いて写真を撮り始めた。そこに座るとかっこよく映るぞとか××ライダーのポーズわかるか?とか。少年は嬉しそうにポーズをとる。少年の気がそれたらその度に不破はうまいこと少年の気を引くのだ。
なんだ、アイツ、あぁいう事もできるのか。普段は隠し撮りを現像して売ったり、他校とやりとりしたり、そんなことばかりしている悪童だと思っていた。まぁ、それは実際、問題であるのに変わりはないけど。あぁいう器用なこともちゃんとできるのかと、少しだけ、ほんの少しだけだが見直した。
「おーい。秋兎!山降りるぞ」
呼びかけられてハッとする。少しぼーっとしていたようだ。呼ばれた方を見ると不破にはぴったりと少年がくっついている。どうやら気に入られたらしい。
「麓の駄菓子屋行こう。そこで休憩だ」
不破がそう言うと「アイス!アイス!」少年が笑顔で走り出す。さっきのしおらしい態度は何処へ行ったのか。俺には兄弟が居ないからわからないが、もしいたらこんな感じなのかなとイメージする。いいなぁ。こういうの。そんな妄想をしていると、ふいに不破が俺の側に来た。そのまま俺の耳元で囁く。
「あのチビの身体、アザだらけだぞ」
「え……」
二人で顔を見合わせ、そのまま目線を少年に向けた。さっきは服で隠れていて気がつきもしなかったが、彼の身体には生々しい青痣や擦り傷が真っ白い肌を色づけしている。転けて怪我したり、運動で怪我をした物ではないように見える。
頭をよぎるのは最近のTVのニュース。虐待、虐め、喝上げ、暴力、エトセトラエトセトラ。不破も同じような事を連想したようで、頬には冷や汗がにじんでいる。
「駄菓子屋で……アイツの名前とかその……怪我の理由もそれとなく聞き出すつもりだ。もしやばそうだったらお前が交番にでも連れて行ってやれ」
そう言いつつ不破は少年を見た。その目線に合わせて俺も道の先に目線を向けた。少年は屈託のない笑顔で俺たちが追ってくるのを待っていた。
俺たちが上ってきた方向とは違う道から山を少し下ると、古い駄菓子屋が出てくる。確か、同級生の誰かのお父さんとかがやっている駄菓子屋だと聞いたことがある。けど、一学年に1000人ほど在学している俺たちの高校では、誰が誰の親で誰が誰の兄弟なのかもさっぱりわからない。
立て付けの悪い扉を開けると、店の人がいらっしゃいと声をかけてきた。少年は直ぐさまアイスコーナーに向かい、どれを食べようか吟味し始める。
少年はメロンボール、不破はガリガリ君、俺はホームランバーのバニラを選んだ。代金を払い(さすがに不破のおごりだった)店外の木陰にあるベンチに並んで座る。日差しの熱で溶け始めるアイスと風鈴の音が、どうしようもなく夏を感じさせた。不破は器用にガリガリ君を食べながら、蝉の声の隙間で少年に話しかけた。まるで何でも無いことのようなふりをして、素っ気なく優しく声をかける。
「なぁ。お前その身体の傷どうしたんだよ。転んだのか?」
「……う、ん」
少年はややばつが悪そうに答える。うんとは言ったものの、やはりそうではないようだ。不破は引き続き、なにも重要なことじゃないようなふりをして言葉を続けた。
「そんな風にぶつけるといてぇよな。なぁ秋兎」
「え?あ、うん。そりゃ痛いよ」
突然ふられて一瞬たじろぐが、なんとか返事をした。俺も会話に混ぜながら話を進めるらしい。
「今は平気なのか?」
「うん。大丈夫だよ」
「そうか、お前我慢できるなんて偉いな」
その言葉に少年はアイスを食べる手を止めて顔を上げる。
「僕、えらい?」
その隙を不破は見逃さなかった。なんでもないことのように、けどやや大げさに返事をした。
「すげー偉いと思うぜ」
少年は笑顔になった。俺もすかさず話しかける。
「うん。すっごく偉いね」
「えへへへ」
「そういや名前なんて言うんだ?」
「僕は、外崎翔太だよ」
「とのさき?ふーん。なんか良い名字だな。どう書くんだ」
「お外の外に山とえっと……」
「多分書けるから大丈夫だ」
「お兄ちゃんの名前はふわなの?」
「おう。不破トオルだ」
「ふわってどう書くの?」
「あ~……小学何年生で不破の破って習うんだっけか?」
「……僕、小学校行ってないからわかんない」
「……は?」
俺も一瞬「は?」と頭の中に疑問符が浮かんだが、子供の良い間違えだろうと思った。
「ほら、フリースクールとか、そういうのじゃないの?自由にいけるやつ」
「あ~なるほどな。学年とか関係なく一緒になってるやつか」
合点がいったという顔の不破に少年は言葉を重ねた。
「違うよ。僕、今年は一回も学校行ってないよ」
三人の静寂に、蝉の声が大きく響いた。ややあって不破が頭を掻きながら話し始める。
「あー……言いたくないなら言わなくてもいいんだけどよ、その、虐められてた?とかか?」
「ううん。別に」
「じゃあなんで」
「お母さんが一緒に居てって言ったから、一緒に居るの」
その言葉の響きに、一瞬ドキリとした。美しく聞こえるそれには明らかに危険な香りがするからだ。けど、少年の言葉にはどこか誇らしげな雰囲気が漂っている。
……これ以上聞くと彼は何も答えられなくなるかもしれない。きっとここから先の言葉は口止めされているはずだ。案の定少年は「ちょっと言い過ぎたかもしれない」と言わんばかりの仕草でアイスを懸命に食べ始めた。不破も次の言葉を探しながら溶けかけているアイスを口に運ぶ。俺も黙って手に近い方のアイスを舌先で舐めとった。少年のふと言動を思い返しつつ、頭の中で手がかりを探す。あ、もしかして……。
「お母さんと一緒に居てあげて、翔太くん偉いね」
「そうでしょ!僕、偉いんだよ!」
やっぱり。彼は、誰かに褒められたいんだ。褒められると嬉しくてお喋りし出すタイプなんだ。
「えへへ僕はね、お母さんの言いつけちゃんと守るんだよ。お母さんの味方なんだ」
不破も俺の言葉に合わせて喋り始める。
「ほぉ~親孝行だな」
「ソレって良いこと?」
「お母さんを大事にしてるってことだよ」
「そうだよ!僕はオヤコウコウなんだよ!だから痛いけど、車にも当たるんだ」
は?と言葉が出そうになる。その言葉をなんとか飲み込んで、不破に目線を向けると、不破も驚いたような困惑した顔をしていた。
「……車に当たるってどういうことだ?」
「あのね!僕とお母さんはパパと皆で暮らしてたんだけど、パパ居なくなっちゃって、お母さんがパパのお金を返さないといけなくなっちゃって……お金を返すためにお母さんと一緒にバスとか、そういう車にぶつかってお金をもらうの。ちりょーひなんだって」
つまり、要約すると、翔太君のお父さんは借金を残して蒸発し、その借金が母親名義もしくは連帯保証人になっていたせいで母親は借金を返すために息子を学校にも行かせず、当たり屋のように使っている……ってことだろうか。
治療費ってなんだよ。彼はどこも治療されてないじゃないか。それどころか、壊れていく一方だ。一回で、いくら稼げるのだろうか。そんなことに子供を使ってるのか?一緒に居てってなんだよ。こんなに純粋で普通の子どもなのに。
そんなことが頭をぐるぐるまわる。気分が悪くなる。
とにかく、これは異常事態だ。
「痛かったり、怖かったりしないの?」
「痛いし、怖いよ!けど、お母さんのこと好きだから」
「ずっと好きなの?」
「うーん……」
少年は空っぽになったメロンボールの中を見つめる。そして言った。
「好きなときと嫌いなときがある……優しいときと怖いときがあるから……」
あぁ、そうか。君は、俺と一緒なんだ。
「……あのね、良いことを教えてあげるよ。」
「なになに!」
「怖いときのお母さんの事を、お巡りさんにお話しするんだ。一人で話しに行くんだよ。そしたら翔太君はもっともっと褒めて貰えるよ」
その甘美な響きに。少年は心を揺さぶられる。
「ほんと……?」
俺は悪魔の囁きをする。
「本当だよ」
「あ、そうだ。翔太」
不破はそう言うと、リュックの中からホームランバーほどのサイズの黒い塊を取り出した。
「なぁにそれ?」
「かっこいい大人の武器。ボイスレコーダーだ。ほれ、やるよ」
「いいの!」
「悪いお母さんが出てきたときにここのボタンを押して、優しいお母さんが出てきたらもう一回押す。けどこれはお母さんにバレたら捨てられちゃうからな。しっかりこっそり持っておけよ。そしてお巡りさんのところに持って行け。そしたら悪いお母さんを退治できるぞ」
「わかったか?」
「うん!わかった!」
その後、夕方になって明日もまた遊びたいと翔太君はごね続けたから、俺と不破は次の日もう一度駄菓子屋に集まることになった。しかし、1日中待っていても少年が来ることはなかった。
一週間後トオルは俺の現像した写真を持ってきた。同時に翔太君の写真も。結局、翔太君の写真を提出するわけにもいかず、俺のことを隠し撮りしていた別の写真を提出したらしい。コンテストはどうだった?と聞くと、駄目だったとがっかりしたように呟いた。
「二次選考はさぁ、三次選考に進まなかった理由を教えてくれるんだけどよ」
「うん」
「1枚目も2枚目も、死に近いんだとよ。俺の写真」
その言葉に、どう返事をして良いのかわからなかった。俺はただ黙ってその声を聞いていた。不破はぼそっと「初めてだぜそんなこと言われたの」と漏らし「いいじゃねぇかよ。死に近くったって。それも、悪いことじゃないだろ」とも言った。その言葉に救われた気がした。不破は結局、俺に少年の写真を渡してこの話は二人だけものとなった。
次の日の朝。柔らかな天使のはしごと父の声で、俺はいつものように起床する。代わり映えしない朝にうんざりしながらタオルケットに顔を押しつけた。父がリビングに向かったのを確認してベットから起き上がり、重い足取りで一階に向かおうとした。その時、机の上に置いていた写真の中の少年と目が合う。
彼は元気にしているだろうか。今頃、お母さんとアイスでも食べているといいな。俺が聞いた話は勘違いで、実はそんな酷いことなくって。俺の状況も全部夢だったりして。
そんなことを考えながら一階におりても何も変わらない、また真っ白な部屋が俺を包む。父が食事を用意しているのを見ながら椅子に座る。いつもと同じ部屋、同じ父、同じ空気、同じ視線。唯一、テレビのニュースだけが昨日と違う。ニュースキャスターのつまらなさそうな声が流れ、画面が切り替わり、音声が流れた。
『昨夜、午後六時五十分頃××町で、息子に当たり屋をさせていたとして無職の外崎明美容疑者が現行犯逮捕されました。逮捕された外崎容疑者には借金があり、9歳の外崎翔太君をバスやタクシーなどが通る道路の脇に立たせ、軽く突き飛ばし、息子が当たった車から金を騙し取るなどを行なったとして、現在××留置所に身柄を拘束されています。なお、息子の翔太くんはテープレコーダーを所持しており、その音声が決定的証拠になったようです。一方で翔太君は「お母さんと会いたい」と話しているようで、精神的ケアなど専門家の治療が必要とされ』
俺はその内容に息をのんだ。あぁやっぱり、俺が会った翔太君は夢じゃなかったんだ。そうだよな。そうか……あの後、翔太君は悪いママを退治する為に頑張ったのか。優しいママを取り戻すために。必死になって……。
ちりちりと脳の端が燃えるような感触に襲われている。そんな俺に気づかない父は、テレビを眺めながら他人事のように言った。
「酷い親も居るもんだな世の中には。鬼畜だ」
そう言いながら俺のコップにミルクが注がれる。父はもう、食事をあらかた取り終わっていた。あとは少しのパンを食べて、食器を片付け、また俺の前に戻ってくる。このままだと俺はまた今日も、父の慰め物になるんだ。そう思うと心臓が痛いぐらいに締め付けられた。
少年は戦った。きっと泣いただろう。今も泣いているのだろう。お母さんに会いたいと泣いているんだ。戦う果てが理想とは違ったかもしれない。けど彼はちゃんと牙を剥いた。俺は……俺はどうだろうか。
父がパンくずを少し零しながら、パンを食べ終わった。牛乳を飲み干し、食器を持って席を立つ。ニュースに映し出されている少年と目が合う。笑っているような、俺のことを心配するような顔だ。ニュースキャスターの声がする。さっきのニュースの続きが流れる。少年は「こんなことしなければよかった」と言っているらしい。父がキッチンから歩いてくる。その目はもう、おかしくなっていた。口の中が乾いていく。母の声が聞こえた。「お父さんの言うことはちゃんと聞くのよ」。不破の声もした。「死に近くったっていいじゃねぇかよ」父が目の前に座る。真っ白な部屋。なめ回すような視線。気持ち悪い瞳。白いシャツ。黒い瞳。白いグラス。終わらないニュース。
父がほおづえをした瞬間。俺は声をあげた。
「お父さん、あのね」